昭和40年01月31日 夜の御理解
終戦後、そこしばらくというものは、誰でも同じだったでしょうけれども、特に私共はもう徹底、不自由をさせて頂きました。食糧、衣料、経済いわゆる金銭の面にも根限りの貧乏もさせて頂きました。ところが、今からそれを考えてみますと、あれは今日こうして衣料にでも食糧にでも、いうなら金銭にでも不自由をさせなさらない、とする神様の、只、働きであったということに、何の他にないです。
そんなら、私だけじゃないですね。終戦後、食糧に難儀をされた方が、今でもやっぱり難儀をしておる方があります。衣料に難儀をしておった人が、今ごろは買おうと思えばどんなものであってもやはり買えずに、難儀をしておる人もあります。やっぱり終戦後、金銭にも不自由しておられたが、今でもやっぱり不自由をしておられる人があります。どこが違うのだろうかと。
それは、只、私が信心をさせて頂いておつたおかげで、修行させて頂きよったおかげで、その難儀が有り難いものである。同時に、尊いものとして頂いてきたおかげだと私は思います。だから、難しいというなら、ここのところだと思いますね。貧乏しておる。そりゃ、ほんとに今から考えてもですね、本当に借金取りというのはやっぱり鬼のようですよ。もう血も涙もないですよ。それでもですね。それでもやはり有り難い、尊いものにして来たということです、私は。
それが、私は、信心を頂いておったおかげであり、しかも信心を本気でさせて頂いておったおかげであり、そのことに取り組む心意気が皆さんとは少し違とったんじゃなかろうかと思うんです。問題は、心意気です。新歌舞伎の十八番にですね、紅葉狩り、というのがあります。これは常磐津の所作ものです。お姫様達一行が、紅葉を見物に来ております。又、殿様達一行が、やはり紅葉を見物をしております。
そこに、お姫様と殿様の出会いになるわけなんです。そして、折角、酒宴をはるなら、一緒に酒宴をはろうというので、一緒に酒盛りが始まります。飲むにつれ、酔うにつれて、少し乱れてまいります。眠気がついてくるのですね。ところがです、その場を一旦、お姫様達が下がったかと思うと、それこそ鬼の姿もものすごい形相で、鬼の姿で現われてまいります。そして、その殿様達を食い殺そうとするところなんですね。
ところがです、不思議。どうも今日のこの酔い加減、酔い具合というのはおかしいぞ。こんなに皆が眠りを催すというのは、何かこれは魔物に魅せられておるぞ、と。サァー、皆、ここんところを注意せなきゃいけんぞ、頑張らにゃいけんぞ、というて、そこんところを押して、辛抱して眼を覚しておるところへ、鬼が現われてまいります。それは、鬼女達だったんですね。鬼がお姫様に化けておったんです。そして、あることで恨みの重なっておる殿様達を喰い殺そうというつもりだったんです。
そこで、鬼女達とその殿様一行達の立ち回りになるわけです。鬼はかなわずして、退散いたします。いわゆる幕になる。楽屋に入ります。鬼の面を取ったら、只の人間なんですね。それは、お姫様でもなからなければ、いうなら鬼でもなく、やはり、只の人間だということ。いわゆる、それはやはり御芝居なのだということ。例えば、私がです、借金にさいなまれておる。苦しめられておる。
そこを、私は何か、鬼退治でもするような、その間に、私は様々な技を身につけたと、自分で思うのです。そして、後から考えてみたら、鬼ではなかった、只の人間だったということ。ということは、どういうことかというと、あれも神愛の現われであった、神様がこういう力を与えてく下さろうとするためであった。そういう中に有り難いことだなあ。貧乏することも有り難い。いや尊いものだとわからせて頂いた。
そして幕がおりてしもうたら、何でもなかった。成程あの時に借金取りがです、おまえを殺そうとは言わなかった。おまえを頭からかぶろうとも言わなかった。只鬼のような顔をして、いわゆる債鬼と申しますね。借金取りが鬼のような姿をしてから、私を責め苛めただけなんです。「金光様あいすいません」四神様の有名なキャッチフレーズがありますね。もう私はそれがです、私の心をつかんで離さなかったです。
どういうキャッチフレーズかというとですね「氏子の苦しみは神の苦しみ」という言葉であった。もうどんなに苛まれ、どんなに苦しい時でもです、血の涙の出るように情けないとかはがいいと思うても、神様はそれより以上に血の涙を流して、私の難儀を見守っておって下さるという事なん〔だ〕。「神様すいません。神様すいません」と神様に難儀を掛ける事にです、すいませんを申しておりましたら、それが有り難いものになり、尊いものになり、勿体ない事であるという事に、何時もなつておったです。
皆さん、椛目では、様々なキャッチフレーズがあるでしょうが。「これだ」ね。先日からの熊谷さんの頂かれた御理解なんか、素晴らしいキャッチフレーズだと私は思うんですけれど。お互いの心をキャッチするものでなからなきゃ、勿論いけませんよね。どのような難儀、いわば、こげなバカらしい話はあるもんかという中にあっても、「それでも、神は熊谷の家を中心に働いた」とこう仰る。
どうでしょう、こういうようなことが自分の心をピッととらえて離さんというような教えになっておったら。どのような場合であっても、「それでも、神様は誰々氏子の家を中心に、誰々氏子を中心に働いて下さったんだ」ということが、これに感じられ、信じられるようになったら。氏子の苦しみはそのまま神の苦しみ。私の不徳のために、神様にこのような苦しみをかけましてあいすいません。
ということになってくる時です、その例えば債鬼に苛まれる、そのことすらが、既に尊いものに、同時に有り難いものになってくるでしょう。先程、安東さんが参ってみえた。今朝、参ってみえたところが、久留米に降りたところが、どっこい財布を忘れておる。電車だけは、定期券で来たんですけれども、それで又、いっちょう帰られた。帰られたら、もう、うちにゃ大先生ばっかりあるもんじゃけん、嘉朗がこう言います。
家内がこう言います。「そりゃもうお父さん、あんた、間違うとんなさる。歩いてでも行かないけんじゃったところへ。あれが桜井先生なら、ちがわんごと、神様が『歩け!歩け!』と仰ったに違いなか。あんたが、神の声が聞こえんから、又、帰って来とる」と言うて、みんなが攻撃するもんだから、モヤモヤしてですね。「俺もそげん思わんでんなかったばってん」と言おうと思いよったけれども。
あんまり言うもんだから、とうとう喧嘩になってから、こっちまでお参りさせて頂くまでものも言わんでから参りました。と言う様なことを言っておられました。そして、言われるんですね。非常にお酒が好きなんです。お酒も好きですけど、それが、少しですね、何んていうですか、まあ酒乱とまではいかんけれども、確かに酒乱の状態があるんです。もう見境がつかんようになる。
満州時代なんか、そこの何とかという司令部のよかつが一緒に、日本刀を抜刀してから暴れたことがあったという位ですから、酒乱に間違いないですねえ、やはり。それを自分でも苦に病んどられますから、「酒は断たな、酒はやめな」と、一生懸命努力はされるんだけれども、やっぱりいけんのですね。「先生、どうとか、これはおかげ頂く方法はなかじゃろうか」と。
「どうとか先生、おかげを頂く方法はなかじゃろうか」と言うておる間が、良か時ですよ。その間に、御神意を悟らしてもらわな。その修行をさせて頂きよる時に、おかげ頂かな。「ああ、神様、又、失敗しました」失敗しながら、そのことに、本当に難儀を難儀と思わないけん。その難儀の間に、様々なことを神様は教えても下さり、いろいろな信心が身につくのですよ、と。あなたが、そう思うておられるということが、おかげなんだ、有り難いですよ、と。
[三里五里 行けども続く はぜ紅葉]ですかね、誰かの句があります。筑後路の、丁度はぜの盛りの時分を唄った句なんです。もう久留米から、例えば吉井の方まで、久大線なら久大線でまいりますと、どこまで行ってもどこまで行っても、その袖にははぜ紅葉が一杯もえておるという句なんですよ。私共の心の中にもです、やはり、紅葉とか、はぜ紅葉ということは、私共が持っておる一つの難儀ということです。
人間誰しも持っておる、いうならば我情我欲であり、いうならば煩悩なのです。けれどもです、本当にお徳を頂くためにはです、力をうけるためにはです、その煩悩でも断たなければいけんと神様がきついことを仰ることもあるのですけれども。けれどもおかげ頂きたいから、そのこと精進するけれども、サアー、そこは、どこまで行ってもどこまで行っても、この欲望だけは取りはずすことがでけん、取り除くことがでけんというて、難儀をする。それでも取り組む。それでも失敗をする。
けれどもです、その失敗しなからです、分からせて頂く事があるのです。丁度「えいしっちょう」?お芝居のそれと同じ事です。幕になってみて始めて分かる事はです、ああいう厳しいことを私共に求めておられた、それも神様の演出であったという事になる。鬼の面を取ったら、やはり人間だったという事になる。どんな難儀でも、その難儀の仮面というものを取ったら、向こうには神愛があるだけ、只の人間があるだけ。
だから、怖いとか恐ろしいとか思うのは、それは、私共の心の迷いであって、その迷いを取るための信心が、だから必要である。終戦直後、誰だって様々な事に難儀を、もう日本国民全体が難儀をした。そのあの時分に、難儀をした人達がです、もう今頃はおかげで食べものにも、不自由せんごつなった、金銭には不自由せんごつなった。本当に、神ながらに衣料でも頂ける様になったという人は、サアーどうでしょうかねえ、日本中に何人あるでしょうか。
なるほど、あの時分の苦労をしてです、大変財産家になったという人は、もうそれこそたくさんありますよ。けれども、その出来た財産やら、それで、かえって難儀は増しておるというような事実が、かならず、それに伴うておるのです。それは、それを神様のおかげと悟らず、有り難いものと知らず、尊いものまで高めていなかったからなんです、ではないかと思います。
私は、ここんところをですね、徹底させて頂こう。だから、安東さんに申しました。そういう難しいことでもです、繰り返し繰り返しです、やっぱり失敗しながらでも、願い続けておるとです、それは、丁度犬コロがダニならダニがついて、苦しんでおる。ダンゴロリンして痒がっておる。サアー、犬自体は自分で取り除くことはできないけれども、ダンゴロリンして苦しみよるとを見たら、人間が通り合わせる、これは何かおるとじゃなかろうというて、見てやる。
取り除いてもろうた。あとはスッキリした、というようにです、そういうおかげも頂けるんですよ、と。だから、問題は、そのことを真剣に悩まなければ、真剣に苦しまなければならない。そして、その苦しみを、悩みをです、有り難いものに、尊いものにまで高めていかなければいけない、というて、お話をしたことなんですけれどね。どうでも一つおかげを頂きましてですね。
私共の難儀と、もし感ずるものがあるならばです、それは紅葉狩りの殿様がです、いわば鬼女に変わった、その鬼女に立ち向かって、立ち回りを演じてるようなものではなかろうか。本気でその気になり心意気が、その心意気が生まれ、本気でそれに取り組むならば、必ず鬼女は負けなければならない、鬼女は逃げなければならない法則があるのです。そこんところを、教祖は又の言葉で又の教えで教えておられます。
「真で成就せぬことなし」と仰っしゃる。「成就せぬ、その時は、氏子の真が欠けておると悟らなければならぬ」と教えておられます。ね。もう必ず、真をもってするならば、それに立ち向かうならば、その鬼女は退散しなければならないようになっておる。そして退散さし得てから幕になる。後で考えてみたら鬼女ではなかったということ。やっぱり只の人間だったということになる。
そこからは、私は、何というですかね、現在私が頂いておるようなというと、あんまり言葉が、過ぎるかも知れませんけれども、まあ私が頂いておる程度でも、これがもっともっとアカぬけしたもの、もっと大きなもの、豊かなものになって、いかなければならないところに、私の生涯かけての、修行があるわけなのですけれどもです、これは、限りがありません。
けれどもここの所は一つ、一つ一つの問題の中から、そういう信仰体験を。本当に難じゃない。決してあれはあんな鬼のごたる顔をしておるけれども、あれは、あれの正体ではなくて、それは面を被っておるだけの神様の演出であると解らせてもろうたら、怖いこともなからなければ、いうなら腹も立たんという事にもなりましょう。そういうおかげを日々、頂いていかなければならんと私は思うですね。おかげを頂きますように。